自傷跡を見た時に過剰に反応しない人が好きだ、触れないでいいものにわざわざ触れないその絶妙な距離感、必要以上に興味関心を持たない姿勢、あるいは思いやり。ただ目に見える切り傷として残っているものだけに言及することは優しさでもなんでもない、ただの傲慢、ただのあなたのエゴです。自傷行為の何が悪いかが分からなくて、自分の身体を傷つけるなってじゃああなたの身体なら傷つけていいんですかっていうのは屁理屈だって分かってるけれど。不愉快だからするなって言われた方がよっぽど納得できる。死にたいという言葉がはらんでいる辛さの最大値は人の数だけ違うから、死にたいに対する解釈も乗り越え方も励まし方も違うわけで、結局は他人の痛みなんて理解できるわけがないから、生きていれば良いことあるみたいな言葉は私は好きではない。それは本当に生きてて良いことがあった人にしか響かない言葉だから。死にたいって声に出してみた結果、その言葉はやっぱりタブーなんだと気づいた人から死んでいくことが悲しい。誰の死にたいも軽んじるなよ。悲劇のヒロインのレッテルを勝手に貼るなよ。私は誰かと比べて死にたくなったことも自分が一番辛いと思ったこともないのに、私は私を正しく見つめ直した時に劣等感や自己嫌悪が浮き彫りになるから、私に対する感情を正当に評価してるだけで、誰かに可哀想と言われたいわけではない。死にたいという言葉を真剣に受け止められたくも茶化されたくもない。他人の言葉に期待なんてしていないし、誰かのアンサーを求めてるわけでもない。結局自分を救うのは自分だったし、誰かに救われたいとも思ってない。

救済のようなもの

勝手に傷ついて勝手に舞い上がって一人で泣いて一人で笑って、ろくでもないことばかりだ、余計なことを無意識に汲み取りすぎて破裂するのに肝心なことはなにも汲み取れない、私だって誰かにとっては無神経な人なんだから、周囲から無神経な人だとレッテルを貼られてる人は相当無神経なんだろう。うまく生きれてる気がしない、私はそんなに大それた人間じゃないから、ないのに、褒め言葉もそうじゃない言葉も全部苦しくて嬉しい、多分きっと全て真に受けすぎ、だからうまく生きれてると思わない。言葉に傷ついたけど言葉に救われてきたから私も誰かを言葉で救いたい、だけど私には学がないから、せめて思考を整理するために、蓄えを増やすように、何かを書いて、本を読んで、音楽を聴いて、出来損ないの私の何かが、いつか誰かの救いになればいいと思う、ならなくても別にいい。私はあなたの、空白を埋めたい。

空白

久しぶり過ぎてどんな文体でどんなことを書いていたかほとんど忘れてしまったので読み返してみたらまぁ大体今と特に変わんなかった。変わったことと言えば、孤独を愛したいと思えるようになったこと、全ては寂しさのせいではなく幼さのせいだったこと、生き様を尊敬できない人間に費やしてる時間はないと気づいたこと。自分のことは相変わらずあんまり好きでは無いけど、選択肢を悔やんだことはあんまりない。それはきっと、どんな選択をしたって、その全ての出来事に意味があったと思っているからで、最善が全然最善じゃなかったとしても、最悪だからこそ胸を打つような音楽、友人、言葉があったからで、それらを全部なかったことにはできなくて、プラマイプラスだなって思うようなものばかりだから、私はみんな愛してるし、死なないで欲しいと思う。思い出も言葉も世界もみんな消えてしまえばいいと思っていたけれど、消えるべきは自分だった。消えるつもりなんてないけど。本質を知りたい、人のことを信じていたい、だから嘘をつかないで欲しい。死にたい、生きたい、まるで対極なようで繋がってる意識、矛盾、どちらも抱えながら、生きたいと思う。

いつでもあたしを君に道連れて

あなたが好きだと言ったアーティストの音楽聴いてたら涙出てきて私が好きだと言ったあなたはもう死んでしまって、「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と何度も繰り返すあなたの声がまだ脳裏に染み付いてる、ごめんなさい本当に好きだったの、って私もそうだよ、信じてたよ、嫌な事も頑張って乗り越えてあなたに会いに行こうと思ってた、抱きしめて欲しかった、生きる理由にしてた、ばかみたいだけど、あなたが産み落とした言葉たちは間違いなく私の核のようなものになってる、いつになるかわからないけど絶対愛に行きます。貴方が貴方の大切な人を待つと言ったように、私も貴方の帰りを一人で待ってます。奇しくも貴様は綺麗だ。ね。

せめて綺麗な遺骨になってね

自傷行為をして得る安心を奪うことや、「死にたい」と呟く人の口を塞ぐことは、彼らの命を否定することだと思う。健全な精神を持ち合わせる人の大半は自殺志願者の死にたいという感情を否定する、人が死んだら悲しい気持ちは痛いほど分かるけど、無意識に、そして的確に、より深く傷口を抉ってくるのが恐ろしくて、何も言えなくなる。「死にたい」に対する正答って何なんなんだろう、ここ数年ずっとそんな事ばかり考えて生きてたけど答えがずっと見つからなくて、「あなたが死んだら悲しいよ」「生きたいって思えるようになって欲しいな」だなんて当たり障りのない言葉をかけることしか出来ない、て絶対嘘だろって思われても、死んでしまったら本当に本当に悲しい、悲しんでるあなたは人間らしくて好き、笑ってるあなたも可愛いから勿論好き。「死にたいなら死んでもいい」なんて言う人とは分かり合えない、悲しいから死んで欲しくないに決まってる、苦しんでるあなたを見たくないから、私はあなたの人生に責任は負えないから、せめて最後くらいは望んだとおりに楽になって欲しいと思う。祈りです。自殺できない自分を弱虫だなんて思わないで欲しい、死にたい、死にたくない、生きたい、生きたくない、いずれにも当てはまらない感情があって当然だと思う、死にたいって言いながらでも、生きる選択肢が出来たあなたは立派だよ、もちろん望み通り死ねたあなたも立派。綺麗には生きられなくても、せめて綺麗な遺骨になってね。

 

死を肯定する人が少数派なのは彼らが死んでいくからなんだとしたら、せめて私はその人たちを生きたいって思えるようになるまで肯定できる人になりたい、烏滸がましいかもしれないけど、身勝手なお願いかもしれないけど、いっぱい死にたいって言って良いから、生きてて欲しいです。

神経過敏な愛

秋はいろんなものが心地良くて綺麗、夕方の空は綺麗だし空気は冷んやりしてて気持ちいいし葉っぱは綺麗だし。定時し難い曖昧さとか、手持ち無沙汰でなにをして良いか分からなくなるような虚脱感とか、十二月の喧騒まで鳴りを潜めるような静寂とか、全てが愛おしくて幸福だなあって思う。

一日の大半をなにもせずに死んだように過ごしてる。何をするにも億劫で極力外に出たくないしバイトの面接や友達とのご飯や心療内科の予約は連絡無しで忘れたフリ、嘘をつくことに対する罪悪感が薄れてきて本当にやばい、今まで迷惑かけてしまってごめんなさい。この期に及んで体が動かないとかしんどいとか甘えたことばっかり言う、こんな風であるのに寝てご飯食べて三大欲求を満たしてちゃっかり生きてる自分がとても浅ましくて気持ち悪い。

 

嘘が嫌いなのに自分は平気な顔して嘘つく人間って頭おかしい、まあ私のことなんだけど。別に本当のこと言われても怒らないし泣かないのに、貴方の前では、そんな中途半端な優しさ見せられてもどうせ嘘だって知った時の感情の方がよっぽど辛いってこと知らないんでしょ、疑心暗鬼になるのもこの言葉は嘘なのかなって考えて眠れなくなるのも嫌い、どうせ終わってしまう関係とか、その場しのぎとか、そういうの分かってるならもうその場で終わらせてしまえばいいのに口先だけ、適当なこと言って全部信じてしまうからやめて欲しいです。でも私は多分これからも皆に嘘つき続けると思うから、別にもう何でも良いです

 

人に頼るってなんなんだろう、めちゃめちゃ難しくないですか?よくいろんな人が「ひとりで悩んじゃダメだよ 」「辛い時は周りの誰かに頼るんだよ」って言ってるんですけど誰かって誰でも良いわけじゃないじゃないですか、普通に気持ち悪がられるだけじゃない?深夜に頭おかしくなってじゃあ人に頼ってみようって思って友人に泣きながら電話したんだけど言いたいことはまとまらないしなにが悲しくてなんで泣いてるかなんて私も分かってないから困らせてしまって、心配かけてしまって、そりゃいきなり泣いてる人が電話掛けてきたら怖いよね。ごめんなさい。なんて言っていいかも分からないし人が離れていくのは怖いし不特定多数の人が見えるようなところでひとりごとのように気持ち悪い感情をぼそぼそと吐露する方が気楽だ、それもそれで気持ち悪いけど。思考を整理して色んなところに書き留めておきたい。